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カナダからの出発

2011年8月号掲載

日本を心から愛しているにもかかわらず日本語を失ってしまった日系三世の父親と、何の不満もなかった日本での生活に終止符を打ちカナダへ嫁いできた母親が、最も大切な我が子のためにこのカナダで伝えたいと考えた… 日本の言葉を、文化を、習慣を。
息をするかのように自然に日本を感じる事が出来る環境があれば・・。そう願う親達は私達だけではないはず、と。

そんな親の想いを形にした所、『池端ナーサリースクール』~日本語保育園が18年前誕生した。

このように息子に日本語を自然な形で教えたいと思っていたし、当時幼稚園以上の年齢の子供たち対象に、毎週土曜日一回の授業を提供する学校は豊富にあった。ただ、言語を学ぶには、人間の脳が柔軟である乳児期から常に身の回りに溢れている事が望ましいと私は考えていたが、その様な日本語施設がトロントにはなかったのだ。自分の息子には生まれてすぐから日本語シャワーを浴びせてあげたいと常々思っていたが、ないのであれば仕方がない。自分で始めよう!と言う訳で始めたのが、自宅を改造してのホームデイケアだった。

ナーサリー誕生のきっかけとなったそんな息子健人(けんと)も現在19歳。大学生である。

池端ナーサリースクールを自分の生まれ育った場所と考えてくれているようだ。
ナーサリー在園の頃は、それはそれは超が着く程、悪ガキで手に負えなかったが、それでも何とか日本語を維持し、ティーンエイジャーになってからは園児達相手にボランティアもしてくれるようになった。健人の誕生を機に、出産、産後、子育て、日本語教育、家族のあり方などを体験して来て、彼が大人になった今も尚、私自身、共育させてもらっている状態だ。

私は今、大きな顔をして園長などと名乗っているが、ナーサリーでは、時には給食室のおばさん、用務員のおばさん、動物の飼育係、園庭の手入れをするガーデナー…と、常におばさんパワーを放ち、何でもこなしている。

そもそも私が、カナダトロントの地にやって来たのは1990年。日本では、バブル全盛期。当時の愛車を売り、手に入れたお金を元に、知人が住んでいたカナダ・トロントから始め、北米、南米、南の島々、そしてヨーロッパに渡り、日本に戻ろうと考えていた….
海外で働くつもりも、学校に行って勉強するつもりもなく、ただただ観光目的の私は本当に英語が全く話せなかったので、見るからに英語を話すいわゆる私にとっての『外国人(英語人)』を外見で見分ける様にし、その人達は避け、日本語の話せそうな、いかにも日本人だろうと思われる外見の人のそばに近づくよう心がけていた。

私が慕ってトロントまで訪ねて来た知人は、日本食レストランのシェフで、またマークも当時は日本食レストランのヘッドシェフであったため、仕事が終わるのは夜も遅く、当時レストランが終わってからシェフ達が夜な夜な集まる日本のカラオケバーに私も呼ばれた訳だが、当然ここでも『英語人チェック』をする。皆、日本人の顔で、楽しそうに日本語のカラオケを歌っている。“今日は日本人ばかりだ!”と安心して座ったのがマークの隣りだったのだ。

笑顔で「こんばんは!」と挨拶すると、「ハーイ!」との返事。彼は日系3世のため、日本人の顔をしているが日本語が話せないと言う存在だったのだ。頭から血の気が引いて行くのを感じた。(英語人の横に座ってしまった…)出来るだけ反対側の隣りの日本人と会話する様にしていたにも拘らず、マークはしつこく英語で話しかけてきた。

大した会話もしていないのに、後日マークから知人に電話が入り、カナダデー恒例の日系人が集まるピクニックに誘われた。その時から、私とマークと、そして誰かしら通訳をしてくれる友人と、“3人のデート”が始まり、それはしばらく続く事になった。

時間の経過と共に、何とか2人でデート出来る様になったとは言え、言いたい事がすぐに伝えられないどころか、色んな事を省略して、1/4程度、いや、それ以下の内容で伝わっていた事だろう。それでも、少しでも日本から持って来ていた分厚い英和辞典と和英辞典の2冊を常に持ち歩いていた。

さて、マークと付き合って行くに従い、カナダに滞在する事を念頭に色々と調べ始めた。当時、ワーキングホリデービザと言うのは非常に簡単に手に入れることが出来、中には2回も3回も申請をし直している人達もいた。今から思うと信じられない事だが、私も簡単に観光ビザからワーキングホリデービザに切り替えることが出来た。カナダで始めての仕事は、日本食レストランでのウェートレスだった。始めて受け持ったテーブルで、しょっぱなから大瓶の日本ビールをお客さんのスーツにお盆の上から落っことし、泣きそうになりながら必死で謝る私。その後も緊張し続けていた私にそのお客さんは「最初の一歩はどんな事でも大きなものよ。失敗にひるむ事なく、それを次に活かして努力すれば良いのよ。あなたの笑顔を大切にしてね。」と言ってくれ、20%以上のチップも置いていってくれたのだ。その言葉も心に焼き付いているが、その寛大な対応を私も見習って生きていこうと思ったものだ。

時間があれば、とにかく英語の勉強をした。一日の出来事をとにかくマークに話したかった。彼と一緒にいればいるほどコミュニケーションのツール『言葉』の大切さを実感していた。全く別世界の人間同士を仲良くさせるも悪くさせるも、『言葉』次第であり、その難しさも同時に痛感した。

言葉を発せない事で、悔しくて怒ったり、腹が立ったり、悲しくなったりとの経験は日常茶飯事。でも逆に、英語が上達して来る事により、違った場面で多くの人々と話が出来る様になり、喜びと希望、次のステップへの大きな支えにもなって行った。

そのような中、日本への一時帰国などを考えなければならない時がやって来た。ワーキングホリデービザをもう一度再申請しようと考えていた矢先、マークは結婚を申し込んできた。

知り合ってまだ1年弱だと言うのに、英語もままならないのに、環境も文化も違う世界で暮らしていけるのか….。日本での家族、友人、職場、どれをとっても何の不満もなかった私が何もかも捨てて、ここカナダで一から出発していけるのか。

不安な事を挙げていけば、キリがなかった。